スマホのカレンダーアプリを眺めていると、今年一年間で福岡に帰った回数が10回を超えていることがわかった.
大阪に出てきて30年以上になるが、もちろんダントツの回数で、おそらく2位の回数のトリプルスコアくらいだと思う。
お袋さんのことがあったとはいえ、一年の間にこれだけの頻度になると、「里帰り」とかいう言葉に宿る特別感はまったくなくなっていることに気づく.
と言いつつ30歳を過ぎた頃からは、盆と正月の年2回は帰るようになっていたので、その頃から「里帰り」という感覚は薄れつつあったと思う。
確か、就職が決まった頃は、「“錦”を飾れるまでは故郷に帰らない」なんて放言していたような気がするけど笑
「里帰り」というのは、昔、田舎から東京に出稼ぎに出た人たちが正月などに故郷に帰ることを指していたと思う。もっと昔なら奉公人として、江戸の商人に預けられた田舎の子供が、何年か仕えた後、「お暇」をもらって故郷に帰るようなことを指していたのだろう.
そんな彼らと比べたら毎年2回以上は帰省している私の行動は、同じ「里帰り」と表現するのはおこがましい、という気がする。
そういう意味でいうと、故郷を離れて生きる というライフスタイルの意味合いも変わってきたのかも知れない.
今やリモートワークでどこでも仕事ができる時代だ.移動手段も高速化し、その気になればいつでも帰ることができる。
それはある意味、幸せなことだと思う。
一方、「故郷を離れて生きる」という事に、昔ながらの魅力も感じる。
言うなら「自立して生きる覚悟」みたいな大人の矜持だ。
昔は田舎では生きていけず都会に出るしかなかった。現実的に自立を強制されていたわけだ。
しかし、恵まれた現代、“自ら“自立を目指さねばならなくなったかも知れない。
子供部屋おじさん、親の年金に頼った引きこもり中年。。。こんなネットニュースが頭をよぎる。
さて、カレンダーを見て書き出した文章。
オチが見つからず、現代問題を匂わせる締めとなった笑